筋委縮性側索硬化症(通称ALS)という病気があります。
日本では1974年に特定疾患に認定された難病です。
体を動かすための神経が徐々に侵されていき、手足のしびれや脱力など
から始まり、感覚や知能ははっきりしたまま、全身の筋肉がやせ衰えて、
全く体を動かすことができなくなり(食事や歩行も不能)最後は
呼吸不全となって死に至るという病です。
まだ有効な治療法は見つかっておりません。
現在、日本では約8,000人の患者さんがいらっしゃるそうです。
現在私が修行している空手流派の先代館長も、この病気で14年前に
亡くなられました。
まだ50歳の若さでした。
この病気が進行すると最後は呼吸障害を生ずるのですが、人工呼吸器を
付けると10年以上生きることができるようになりました。
また、瞼と眼球は動かすことができるので、文字盤を使って意思疎通を
図ることもできます。
しかし、人口呼吸器を付けると24時間の介護が必要になります。
確実に家族の方々の負担は増えます。
また人工呼吸器装着後も麻痺は進行し、末期には眼球運動も麻痺し、
本人意思の確認は極めて困難になります。
この度、この筋委縮性側索硬化症(ALS)について、北里大学が全国規模
の調査を行いました。
(以下北海道新聞より引用)
全身の筋肉が動かなくなる難病「筋委縮性側索硬化症(ALS)」の治療
に関する北里大の全国調査で、「いったんつけた人口呼吸器を外してほしい」
と患者側から依頼された経験のある医師が、回答者の5人に1人に当たる284人
に上ることが5日、分かった。
人工呼吸器を外せば殺人罪などに問われる可能性があり、依頼された医師の
ほとんどは「外さなかった」と答えた。9人は「外した」としたが、時期や経過の
説明がないため詳細は不明。
条件次第では「外していい」と考える容認派は約850人と回答者の50%を超えた。
ALS患者からの呼吸器外しの依頼の有無や対応を医師に尋ねた大規模な調査は異例。
中心になった北里大の荻野美恵子講師(神経内科学)は「少なくない医師が患者や家族
の切実な願いに直面して悩んでいる。社会的な議論が必要」としている。
調査はことし3月、日本神経学会の専門医約4500人を対象に実施、約1500人から
匿名で回答を得た。
ALSは進行すると意思疎通が全くできなくなる場合があり、「そうなったら呼吸器を外したい」
との要望書を事前に書く患者が出始めている。
調査結果によると、「患者や家族から呼吸器を外すことを求められたことがある」
と答えた284人のうち、その時の対応で最も多かったのは「違法の可能性があって外せない
と説明した」の227人。次いで「外すべきではないと説明した」が44人だった。
外すことの是非については「事前やその時点の患者の明確な意思と家族
同意があれば認めてもいい」が48%。「意思疎通できなくなった患者に
限り、事前の意思表示があれば認めてもいい」が11%で、合わせて半数を超えた。
「認めるべきではない」は24%だった。
(引用おわり)
ALS患者の多くは、人口呼吸器を付けるか、つけずに死を選ぶかの過酷な選択を迫られます。
「生きたい、でもその後の家族の負担を考えたら人口呼吸器を付けることはできない」
「自力で体を動かすこともできず、機械に生かされているだけの人生に
意味があるのか?」
様々な思いが頭の中をよぎることと思われます。
日本のALS患者が人工呼吸器を付ける割合は2割だそうです。
我が空手の師も呼吸器をつけることを最初から拒否し、旅立っていかれました。
2009年12月07日
生か死の選択
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いつかは必ず法的取扱いについて厳粛な決断をしなければならないのではないかと思います。
もちろん簡単に決めるような問題ではないでしょう。国会で慎重かつ真摯な審議が行われ、そして最終的には国民投票をするくらい国民一人一人が考えるべき問題でもあるのではないでしょうか。
私は、同じ立場であったら人工呼吸器をつけることを拒否すると思います。人は死ぬとき自分がやってきたことより自分がやってこなかったことを後悔するものだと思っています。生命のみ永らえて、自分がやってこれなかったことをもう決してできないとすれば、後悔しながら生き続けることは精神的拷問以外の何物でもないと思われるからです。
人には2人の親がいて、その親にもそれぞれに2人の親がいます。そうして考えると30代前(だいたい平安末期)には先祖の総計は約10億7千万人になると言われています。その中の一人でも早世したら現在の自分は存在していません。そう考えると、現在自分が存在すること自体が奇跡そのものですよね。その奇跡によって得た命は、社会の発展と次の人の幸せに使うために与えられたからこそ大切に、そして真剣に使うべきだと思うのです。ただ、同時に言えることは、そういう使命があるがゆえに、命を得た者の特権、つまり快楽にも単に生きるだけの使える自由も与えられたのではないかと思っています。
ですから、私は生前の臓器移植の意思表示ができるのであれば、同様に個人の自由意思に任せるのが本来の姿ではないかと思うのです。
有名な名古屋地裁の安楽死判決から相当な年月が経ているにも拘わらず結論は出ていませんが、結論など出ない(出せない)のが当然だというのが私の見解です。究極的な個の問題・世界観の問題なんですから。
日本の医者は患者の肉体的苦痛に関して一般的に鈍感ですが(アメリカでは患者の意思に反して不必要な肉体的苦痛を与えると傷害罪で訴えられると聞きました)、患者の治療における自己決定権をないがしろにしているんではないかとさえ思うのですが、言いすぎでしょうかね。「患者さま」なんて慇懃無礼な言い方する前に、何とかしてほしいですね。
問題を棚上げしている間に
医療技術が進歩して、その病気が治るようになるのが
一番良いですが
こればかりはその当事者(患者本人もしくは看病する家族)になってみないと
分からないような気がします。
簡単な問題ならYESかNOをすぐに決める私ですが
こういう議題はお手上げでございます。
まいりました…。
つけない・外すが「本人の意思」といえど、はたして、真意なのか?と、その後の呪縛となりますネ。
応援
ALSは子供の頃観た海外のテレビドラマ「ルー・ゲーリック物語」で知りました。別名ルー・ゲーリック病と呼ばれてるみたいですね。
「生か死の選択」は個人の死生観がからむだけに、当事者や
その家族以外の第三者が口を挟みにくい問題です。
あくまで、「私」がその立場になったらという条件付で考えるなら
やはり延命治療は望まないでしょう。生きるとは喜怒哀楽を表現
出来る状態だと思うので、いくら最先端の医療で体が生かされて
いても、心が死んでいる(表現できない)のなら、この世に存在
している意味がないと思うからです。
私の母も同じ考えなのか、「私が回復の見込みのない状態になったら
(延命治療を)しなくていいよ」と言われてます。
ただ、本人の考えがはっきりしていても、周りの家族や医者が
望まない場合もあるでしょうし、本人が意思表示をしないまま
そういう状態になった場合、誰がどういう判断を下すのかという
ケースも考えられます。法整備も含めて今後の課題だと思います。
いつも真っ先にコメントを頂きましてありがとうございます。
医学が発達したが故の悲劇とでもいいましょうか、「人間として生きる」
とは何かを真正面から問われる問題だと思います。
「生きたくても生きることができない」「死にたくても死ぬことができない」
自分でブログを書いておきながら、あまりのテーマの大きさに結論を出せずにおります。
議論の必要ありきですね。
コメントありがとうございます。
クラシックダンサー様のコメントを拝読し、逆に考えさせられました。
>現在自分が存在すること自体が奇跡そのものですよね。
その「命」をどうやって使うのか?真剣に考えたことなどなかった
ような気がします。
この病気の残酷なところは意識がはっきりしているまま、体が全く動かなくなることです。
この状態のまま生かされることは、まさに「精神的拷問」と言えるかもしれません。
人工呼吸器をつけるのか、つけないのか?
付けたとしても外せるのか、外せないのか?
個人の自由意思に任せることはどこまでが可能なのか?
結論を出すことはできないですね・・・・
コメントありがとうございます。
はい、おっしゃる通り結論の出ないテーマです。
患者ご本人と、ご家族の方が想像を絶するほどの苦痛と負担を
背負うということだけははっきりしていると思います。
世に”不治の病”と呼ばれるものは少なくないですが、
もし自分がその立場に置かれたらどうするかという、ある程度の
心づもりはしておいたほうが良いかもしれませんね。
医療技術のさらなる進歩が待たれます。
コメントありがとうございます。
私がごとき若輩者が大それたテーマで書いてしまいました。
先生のおっしゃる通り、私も含め「誰しもが答えられない問題」だと思います。
「本人の意思」が真意なのか否か?まさに本人にしか分かりません。
これは天が人間に与えた試練なのでしょうか・・・「乗り越えよ」との。
コメントありがとうございます。
「ルー・ゲーリック物語」は私も観ました。
昔だったので確か「小児マヒ」という表現が使われてた気がします。
>生きるとは喜怒哀楽を表現出来る状態だと思うので・・・・
意見が分かれるところだと思います。
「生きる」とは何か?という定義は個々人で当然異なってくると思いますし、
また周りの家族がどう思うかも様々だと思います。
難しすぎる問題ですね。自分で書いておきながら結論が出せません。
金さんのお母様は、はっきりとしたお考えをお持ちなのですね。
私の母も70歳を超えていますが、死生観については聞いたことはありません。
永遠の課題ですね。
見舞いに行ったときには、元気に会話していたのに、
その一ヶ月後に訃報を聞いたので、呼吸器は着けな
かったのだと思います。家族がいませんでしたから。
自分が同じ病気ならやっぱり、着けないと思います。
そこまでして、生き続けなければならない理由は
ちょっと見つからないです。
コメントありがとうございます。
そうだったんですか、いとこの方が同じご病気で・・・
人工呼吸器を付けるか否かは「生か死か」の究極の選択になりますが、
本人の意思は尊重されるべきなのでしょうね。
私自身まだ答えを見いだせずにいます。